- ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶ水泡(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。-『方丈記』より
 関東にある企業の研究所に勤めた後、山口にある実家のお寺に僧侶として戻ってきた筆者のブログ

「兵戈無用」考2016年01月26日 00:26

「ひょうがむよう」と読みます。

 昨年末の新聞に載っていた、
『兵も武器も一切用いないと説いた仏説無量寿経の「兵戈無用」、・・・』
という文章に違和感を覚えたので、ちょっと整理してみました。

 先ず「兵戈無用」の意味ですが、「兵戈」は広説佛教語大辞典には、
『ひょうか(兵戈)戦争。軍隊や武器。』とあります。
「無用」は今の用法ですと「必要でないこと」が一般的でしょうか。

 「兵戈無用」「仏説無量寿経」の中のいわゆる「五悪段」と呼ばれるところにでてきます。
 この「仏説無量寿経」は中国で漢訳された経典ですが、異訳と呼ばれる「無量寿経系」の5つの漢訳経典が現存しています。訳出年代が違い、内容の相違も見られるので原典も複数存在していたと考えられますが、中国には残っていません。
 「兵戈無用」はこのうち「仏説無量寿経」にしかでてきません。「大正新脩大蔵経テキストデータベース」で検索しても「仏説無量寿経」以外の経典はヒットしないので、「兵戈無用」「仏説無量寿経」でしか使われてないと思われます。

 ところで、中国には残っていない原典ですが、ネパールで「サンスクリット本」の写本が発見されています。
 この「サンスクリット本」を故中村元氏が現代語訳したものが、早川文庫「浄土三部経(上)」に収載されています。これによると上述の「五悪段」に相当する部分はサンスクリット本には存在しないそうです。また、チベット訳経典にもないので、『後代に付加されたものであることは疑いない』そうです。そこで、中村元氏はこの部分を漢文(仏説無量寿経)から現代語に訳して補っています。

 さて、前置きが長くなりましたが、この中村元訳の文章をみますと、
『<目ざめた人>の訪れた国や町や村や聚落で、教化を蒙らないような所はひとつもなかった。そこでは天下がおだやかに治まり、太陽や月もさわやかであった。風や雨もふさわしい時におこり、天災や疫病も起らず、国土はゆたかに、人民は平和であって、軍隊や武器に訴える必要がなかった。』
 この最後の部分が「兵戈無用」にあたります。つまり「平和」だから「兵戈無用」ということです。「仏説無量寿経」に依るというなら、この「前提」がない
 『兵も武器も一切用いないと説いた仏説無量寿経の「兵戈無用」、・・・』
は違和感を覚えてしまうし、もし「兵戈無用が平和に導く」みたいな使われ方だと「誤用(誤解)」だと思います。

 もっとも、「兵戈無用」すなわち「軍隊や武器に訴える必要が無い」は素晴らしい言葉だと思いますし、一刻も早くそういう世界になることを心から望んでいます。

参考文献 
 中村 元、広説佛教語大辞典、東京書籍
 中村 元、早島鏡正、紀野一義訳注、浄土三部経(上)無量寿経、岩波書店
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版(2011)電子版
参考資料
 SAT大正新脩大藏經テキストデータベース(大藏經テキストデータベース研究会(SAT))

コメント

_ 山田秀英 ― 2019年09月22日 10:25

初めましてこんにちは。
仰る通りだと思います。
「武器を持たないから平和になるのではなく、平和だから武器は必要ない」
理屈で考えても全くその通りで、平和な世界には武器や兵士は必要ではありません。世界は平和を保つ事が大原則です。ではどのように平和を保つのか?現代の平和は戦力によってバランスが保たれています。戦力とは戦争をしない為の道具でもある。よって戦力によって平和は保たれている。釈尊の理想通りに世界がお互いを信じ合い、支え合えるなら真実の平和は訪れ、戦力は必要なくなるでしょう。現代は残念ながら釈尊の理想のようにはなっていない。よって現代は戦力によって平和を保っているのでしょうね。
その理屈こそ危険だという方もいますが、それが事実です。

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