- ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶ水泡(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。-『方丈記』より
 関東にある企業の研究所に勤めた後、山口にある実家のお寺に僧侶として戻ってきた筆者のブログ

会見を見ていてドーキンスを思い出しました2011年04月14日 21:17

「個人個人が共通の利益に向かって寛大に非利己的に協力しあうような社会を築きたいと考えるのであれば、生物学的本性はほとんど頼りにならぬ」
      -リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』(紀伊國屋書店)

 すっからかんとその一味、とー○んやその他、院とか委員会の偉い人たち 彼らは非常に優秀なエリートですよ。生物の・・・・。つまり遺伝子の乗り物として!

 昔は良く「種(しゅ)の保存」という言葉を聞きましたが、ドーキンスは種を単位とする淘汰(進化)は錯覚で、その主体は遺伝子だといっています。その遺伝子の乗り物たる「個体」は、同種(例えば人類同士とか)を繁栄・存続させる為に行動するのではなく、自分の遺伝子を残す確立を上げる為の行動をする。つまり、「利己的」なほど優秀(淘汰を生き延びる)ということです。現在、進化の頂点にいる(と勘違いしている)人類は、当然そっち方面の優等生である為、
「ある状態で条件反射的に善い事をしようとすると、利己的になる(他人にとっては悪い事になる場合が多い)」
と、私は拡大解釈しています。(察しの良い方はおわかりのように、私の拡大解釈は親鸞聖人の影響をかなり受けています。)

 よって、自然現象が原因(つまり自分のせいではない)で、命に関わる(あるいは社会的に抹殺=地位を失う)制御できない災害(含む原発)が起っている今、保身に走るのは生物としては当然のことでしょう。さすがエリート! 生物としては・・・ね。

 でも、「人間」としてどうなんでしょうね。ドーキンスも「遺伝子がそうなんだからいいじゃん。ビバ、自己中心!!」とは言ってなくて、むしろそれが制御(抑制)できるのはヒトだけなんだから、がんばって気をつけようよ!!って言いたいように思います。

 どんなに気を付けても、どんなに周りの事を思っていても、やっぱり自己中心に考えてしまいます。このことを、常に心に留めておかないといけませんね。