- ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶ水泡(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。-『方丈記』より
 関東にある企業の研究所に勤めた後、山口にある実家のお寺に僧侶として戻ってきた筆者のブログ

三千大千世界(1)2014年01月24日 20:35

 さて、
 私は全てのものを愛する博愛主義なので、「仏教」「生理学(脳・神経)」「心理学」の本を同時に(交互に)読んでいる(合間に動物行動学みたいな本とかも)のですが・・・・
 (よーするに、集中力と節操がない)
 つくづく、(以前にも書きましたが)我々は「自分の脳内世界」に住んでるんだな〜と思います。もちろん物質的なものは一つ(共通)なのですが、その「捉え方」で個人のバリエーションができるというか。

 例えば、
 二人で同じ風景を見ていても、興味を持っているものによって認知・記憶される事柄(質・量)が変わります。ということは、後でその風景を思い出したときに、その二人の見た風景(世界)は違ったものになります。そんなにかけ離れたものにはならないと思いますが、
『「同じ風景を見てたのだから、私と同じだろう」と思ったら大間違い』
 くらいには、違っている方が多いと思います。(興味の対象の傾向が極めて近いと、同じような「脳内世界」になる可能性は当然ありますが。)そうした積み重ねで「私が生きている世界=自分の脳内世界」がつくられていく・・・。

 ニュースを見てると、「なんでこんな事するんだ??」って事ばかりですが、みんな「自分の脳内世界」に生きているからそうなっているんでしょう。
 その「脳内世界」が「脳内世界の中央値」(多くのヒトの脳内世界が極僅かな違いしかない常識的世界とでも言いましょうか)とずれている度合いが大きいほど「理解できない変な人」になっちゃうんじゃないでしょうか? (時代や地域で「常識が違う」のもこういった理由からかな〜?)

 でも、本人は「自分の脳内世界」で一生懸命生きているのでしょう。

 会社でもそういうヒトいませんか? 
 もちろん、自分の「自分の脳内世界」の方が中央値からかけ離れているという可能性もお忘れなく。

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