- ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶ水泡(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。-『方丈記』より
 関東にある企業の研究所に勤めた後、山口にある実家のお寺に僧侶として戻ってきた筆者のブログ

邦人拘束事件2015年01月24日 16:58

 山口選挙区の衆議院議員が「身代金は絶対払わん」って言ったようだが、余計な事は言わなきゃイイのにといつも思う。。。


 しかし、イスラム国もそうだけど、ボコ・ハラムやイエメンの「フシ」など「武装集団」を宗教と関連づけすぎるのはどうかと思う。

 確かに、歴史的に見て宗教的な理由で戦争したり、侵略したりしてるけど、仮にその当時「宗教」がなくても最もな理由を付けて戦争しただろうから(異教徒を改宗させる→異民族から善良な自領民を守る云々)、宗教があっても無くても関係ない。

 最も、権力者が統治に使える機関として「宗教」を選んでいた(いる)のは明白で、その足下をみて欲望を満たしていた(いる)教団の偉い方々には猛省していただきたい。

 その点、日本は特異的で、僧兵(武装した僧侶)が強訴(朝廷に力づくで要求を認めさせる)を繰り返していた比叡山を織田信長は撃滅し、反信長連合筆頭として10年間戦った本願寺勢力は疲弊・撤退。秀吉の時代は高野山の武装解除、刀狩りによる軍人以外の非武装化によって宗教勢力から武力を奪ってしまった。よってその後、いわゆる宗教戦争みたいな事は起らなかった。ただし、明治の廃仏毀釈の時は、かなりの仏教僧が殺され、寺仏が破却された。


 本来の仏教は個人が「仏になる(さとりをひらく)ためには・・・」という教えなので、一神教みたいに「一人残らず信者にしなきゃ安寧はない(←そんなことはないと言われるかもしれないが、そう見える)」と違って、他人が何を信じてようが基本的には問題にしないという、寛容さというよりは無関心さがある。

 私も例えば、武力を持ってキリスト教に改宗を迫られたら、武器を取って抵抗するんじゃなくて、改宗したふりをして「なまんだぶ」って思っていれば良いこと。
 その場合、聖書を朗読して(今でも読んだりするけど・・・)賛美歌歌って十字切ったて構わないし、言われれば「阿弥陀仏像」を壊す事もできるし、「南無阿弥陀仏」と書いてある掛け軸を破る事も踏む事もできる。だってそれは、ただの木の像だし、字の書いてある紙でしかない。そんな「すがた・かたち」にこだわる意味はない。それが仏教。

 が、神が絶対の一神教にはそれがなく、従って神が侮辱されたら反撃の正当性を主張できる。そして、そこを狙われる。
 もちろん、他人を害したり支配したりする理由に宗教を用いる方が悪いのですが。