- ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶ水泡(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。-『方丈記』より
 関東にある企業の研究所に勤めた後、山口にある実家のお寺に僧侶として戻ってきた筆者のブログ

五悪2010年06月10日 23:34

 浄土真宗の根本経典である 「仏説無量寿経」(略して大経)の下巻に「五つの悪」が語られています。その第五番目を抜粋して引用してみます(少し長いですが)。

 「第五の悪とは次のようである。世間の人々は、おこたりなまけてばかりいて、善い行いをし、身を慎み、自分の仕事に励もうとはいっこうにせず、一家は飢えと寒さに困り果てる。親が諭しても、かえって目を怒らせ、言葉もあらく口答えをする。その逆らう様子はまるでかたきを相手にするようであって、こんな子ならむしろいない方がいいと思われるくらいである。」

 「そうして勝手気ままに振舞い、自分の愚かさは省みずに人と衝突する。相手の気持ちを考える事なく、無理に人を押さえつけようとし、人が善い事をするのを見てはねたんで憎み、義理もなければ礼儀もなく、我が身を省みず、人にはばかるところがない。それでいて自分は正しいものとうぬぼれているのであるから、戒め諭すこともできない。親兄弟や妻子など、一家の暮らしむきがどうあろうと、そんなことには少しも気を配らない。親の恩を思わず、師や友への義理もわきまえない。」

 「このような世間の人々の心はみな同じである。道理が分からず愚かでありながら、自分は智慧(ちえ)が有ると思っているのであって、人がどこからこの世に生まれてきたか、死ねばどこへ行くかということを知らない。また思いやりに欠け、人のいうことにも耳を貸さない。」

 う〜ん、今も昔も似たようなもんですね。と言いますか、人間は本質的に全く進歩していないんだなって気がします・・・・・。・・・・・・・・。

参考文献
 浄土真宗教学研究所、浄土真宗聖典 浄土三部経 現代語版、本願寺出版社(1996)

コメント

_ 周利槃陀伽 ― 2010年06月13日 21:52

ご無沙汰しております。周利槃陀伽 です。4月の下旬にPCが故障し、5月下旬に新しいPCを導入したため、ずっとご無沙汰でした。1ケ月PCのない生活もまたいいものです。また、よろしくお願いします。
 ところで五悪についてですが、「仏説無量寿経 巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪」の中に五悪については、それを消化して、五善を持たしめて、その福徳・度世・上天・泥の道を獲しむるとあります。具体的には、同じく「釈迦指勧 五善五悪」に「人よくなかにおいて一心に意を制し、身を端し、念を正しくして、言行あひ副ひ、なすところ誠を至し、語るところ語のごとく、心口転ぜずして、独りもろもろの善をなして衆悪をなさざれば、身独り度脱して、その福徳・度世・上天・泥の道を獲ん。これを五つの大善とす」とあります。つまり、五悪については、五善をもって消化するということです。
 これは、倫理的な考え方であり、悪は善をもつて制するしかないのです。大経の意は、本願の大悲、つまり、十方衆生を度する、往生に導くことにありますが、ここには、本願のはたらきによる念仏が必ず介在するのです。平等施一切であっても、無条件の救済ではありません。つまり、悪人は救っても悪を行うことは認めていません。親鸞聖人も悪人正機の中で悪人の救済は、主張しますが、だからと言って、悪を行うことは、戒めています。そうでないと仏教でなくなってしまうのです。仏教であるという原点を観て、ここのところをよく理解しないと 悪人は救われる=悪を行ってもよい=何でもあり の論理になってしまいます。よく精進しましょう。

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