- ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶ水泡(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。-『方丈記』より
 関東にある企業の研究所に勤めた後、山口にある実家のお寺に僧侶として戻ってきた筆者のブログ

ニュース見てて2011年04月07日 20:11

 なんだか目につくニュースが原発ばかりですが、被災者への対応がちゃんと進んでいるのか気になります。

 というか、のど元過ぎたと思ってるのかどうか、政治家の「口」が活発になってきたのも気になります。(他にしなきゃいけないことはないのか? できる事が無い??)

コメント

_ 周利槃陀伽 ― 2011年04月10日 10:36

 こんにちは、周利槃陀伽です、3月11日に東北関東大震災が発生して、1ケ月が経ちました。いまだに、余震が続き、原発のこともあり、復興がままならない状況です。被災した方々の状況がテレビ・新聞等で報道され、それを見て、自分もこんなことをしていてよいのか、何とかしたいと思っているのは、私だけではないと思います。困っている人を見たとき、何とかしてあげたいと思うのは、人間の基本的な欲求だと思います。自分のことで精一杯、あるいは自分のこともできていない状態でありながら、何とかしてあげたいと思うことは、例えば、私の勤めている施設は、生活保護法上の施設なのですが、その利用者が現地でボランティア活動をしたいと言い出したり、あるいは、国際的なところで、飢餓に苦しむ国が義援金を贈呈してきたりするのは、その表れかもしれません。
 こんなとき、親鸞聖人は、どうされたでしょうか。
 恵信尼御消息に次の文があります。
 さて、これこそこころえぬことなれ。念仏の信心よりほかにはなにごとか心にかかるべきと思ひて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく三部経を千部よみて、すざう利益のためにとてよみはじめてありしを、これはなにごとぞ、〈自信教人信難中転更難〉(礼讃)とて、みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと、思ひかへしてよまざりしことの、さればなほもすこし残るところのありけるや。人の執心、自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなしてのちは、経よむことはとどまりぬ。 (恵信尼御消息 第三 注釈版 816頁)
 これは、よく〈自信教人信難中転更難〉について、話されることが多いので、御存じでしょうが、聖人が上野佐貫の地で三部経を読誦しようとして思いとどまった有名な話です。このことを聖人は、後々まで後悔していたとのことです。その背景には、自然災害に苦しむ人々を見て、衆生済度の三部経読誦を思い立たれたとの通説から、それは、衆生済度の行にはなり得ないばかりか、本願を疑うことであると気がついたから、思いとどまったのです。聖人は、何とかしようという欲求や自力のこころは、よくよく心しないとそれに振り回され、無量の本願の大悲を妨げることになると戒められております。

 どうしようもないことは、この世にはあるものです。確かに、我々ができることは、被災地のために精一杯日常の生活を送ることです。名号に不足を感じて、自分は、これをやらなければと焦り、気負うことなく、日々、念仏を相続し、与えられた御縁に応じて、役割を果たしていきたいと改めて思う次第です。

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