- ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶ水泡(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。-『方丈記』より
 関東にある企業の研究所に勤めた後、山口にある実家のお寺に僧侶として戻ってきた筆者のブログ

「神は妄想である」2010年02月10日 21:54

 この本の著者リチャード・ドーキンスは「利己的な遺伝子」で世界中にその名を轟かせた生物学者で、日本でも20年くらい前(だったかな)にちょっとしたブームになったので、名前を聞いた事がある人も多いだろう。進化論とキリスト教は仲が悪いらしく、とうとうこんな本を執筆してしまった。
 この本で述べられる「神」とは、『もっぱらキリスト教を念頭においた』(といっても、ユダヤ教、イスラム教はキリスト教と合わせて『これら三つのアブラハム宗教を、一体不可分なものとして扱っても差し支えない』としている上での)『超自然的な神』だ。
 ちなみに『仏教や儒教のような他の宗教についてはいっさい気にしないつもりである。実際には、そうしたものは宗教ではまったくなく、むしろ倫理体系ないし人生哲学として扱うべきだという見方にも一理はある』だそうだ・・・。「仏教は多神教」と書かれなかっただけましだった(多神教としてヒンドゥー教などが挙げられている)。

 さて、本書は500ページ以上からなる大作で、紹介するのがなかなかたいへんなのだが、「ほとんど確実に神が存在しない理由」とか「宗教のどこが悪いのか?なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?」などなどの章名で、科学的(ドーキンス的)考察が詳細に綴られている。
 私は最初「そりゃそうだよな・・・」と面白がって読んでいたのだが、宗教は「百害あって一理なし」的な内容は、仏教が除外されているとしても、かなり身につまされる。 ノーベル賞物理学者スティーブン・ワインバーグは『宗教は人間の尊厳にたいする侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪い事をする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である』と言ったそうだし、ブレーズ・パスカル(「人間は考える葦である」のパスカル)は『人間は、宗教的な確信をもっておこなっているとき以上に、完璧かつ快活に悪をなすことはない』と述べているらしい。昨今の世界情勢や、かつて日本で起った事件を考えると頷かずにはいられないところが、なんともやるせない気持ちにさせられる。

 しかし、ドーキンスは「迷信(盲信)を捨てよ!」と言いたいのだと思う。地球(宇宙)を創ったり、人を創ったりした、あるいは願いをかなえてくれるような『超自然的な神』は否定するが、『宗教に対しては敬意を払うべしという比類なき前提』に立っている。また、アインシュタインの有名な『宗教なき科学は足萎えであり、科学なき宗教は盲目である』という言葉等を引用して、仏教と同様『アインシュタイン的宗教』(超自然的人格神のない宗教)を本書の対象から除外している。訳者があとがきに記しているが、『おそるべきことに米国国民のなかで科学的な進化論を信じている人は、10%に満たない』そうだ。ドーキンスはこういった状況に苛立っているように思える。
 今は変わっているが、「浄土真宗の教章」には「深く因果の道理をわきまえて、現世祈祷や、まじないを行わず、占いなどの迷信にたよらない。」という文言があった。この本を読み進めていくにつれ、ドーキンスが『神は妄想である』で言いたかった事は、実は仏教ととてもよく合っているのではないかと思うようになり、現代における浄土真宗の必要性というものを増々強く感じた。
 ドーキンスさん、門徒になりません?

リチャード・ドーキンス(垂水雄二 訳)、神は妄想である、早川書房(2007)

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