- ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶ水泡(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。-『方丈記』より
 関東にある企業の研究所に勤めた後、山口にある実家のお寺に僧侶として戻ってきた筆者のブログ

連続研修会2012年02月16日 22:19

 今晩は御門徒の方々との車座(みんなが輪になって座る)形式の話し合い法座がありました。

 テーマは「悪人正機」なかなか難しいテーマです。

 「道徳的善悪と親鸞聖人の言われた悪は違う」というような事が言われたりしますが、私は時代の違いが大きいな〜と思っています。

 親鸞聖人のいた時代は、鎌倉幕府が始まった頃です。飢饉が起ったり、戦乱が続いていた時代です。今、「平清盛」が放映されていますが、あの少し後の頃です。「庶民」の様子はあんな感じでしたでしょう。力の無い物は生きられない。「人間の尊厳」って何?といった時代だったと思います。その時代に於いて、多くの人々は自分が「悪」、少なくとも「善ではない」という自覚があったのではないかと思います。

 でも今は(ちょっと前までは?)多くの人が正義を愛する善人として生きていけたのではないでしょうか? それがおかしいと言っている訳ではありません。素晴らしいことだと思います。
 しかし、それが盲目的な過信につながると、周りはもとより自分をも苦しめる事になってしまうのではないかと思います。

 以前、「精神的に健康な人間は、所謂『肯定的幻想』という幸せな病気にかかっていて、自分の能力や自分がコントロールできるできごとについて過大評価し、危険に対する弱さを過小評価している」というNatureの記事を紹介しましたが、この「肯定的幻想」が苦しみ、迷いのもとになるとするならば、それを打破するのが「自分は悪人である」という気付きではないでしょうか?

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://kyousouji.asablo.jp/blog/2012/02/16/6338096/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。