- ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず。よどみに浮かぶ水泡(うたかた)は、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。-『方丈記』より
 関東にある企業の研究所に勤めた後、山口にある実家のお寺に僧侶として戻ってきた筆者のブログ

諸法無我2010年01月31日 22:51

 前に「諸行無常」の話をしましたが、今回は同じく仏教の特徴を顕わす言葉「諸法無我」です。
 諸行無常と違って、あまり馴染みのない言葉だと思いますが、「この世には、永遠不滅の存在としてとらえられるべき実体はない」というものです。
 「無我」は原語的には「アートマンでない」という意味になりますが、アートマンとは古代インドの宗教・哲学・思想の中心ともなるもので、宇宙的な絶対的実体を「ブラフマン(梵)」と、個人的な絶対的実体を「アートマン」と呼んでいました。アートマンとはいわゆる霊魂みたいなものです。釈尊は当時信じられていたこの「アートマン」を否定しました。もっとも仏教では、「霊魂のようなものが存在するかどうかは肯定も否定もできない上、『現実の世界とは無関係』なものだから問題にすべきではない。」という立場なので、「否定」というとちょっと語弊があるのかもしれませんが、「無常」からすれば永遠不滅なものはないということです。

 現代の個人主義的風潮からすると、「我」がないというのは「非常識」のように思われるかもしれませんし、アイデンティティ(自己同一性)というのは人間の成長過程において心理学上とても重要視されています。しかし「我」にとらわれてしまう(我執)と苦しみのもとになってしまうのではないでしょうか。
 周りとの関係がぎくしゃくした時に「自分は変われる。違う自分はどんなかな?」と思いをめぐらし、または行動できるとしたらすばらしいことでしょう。一方「これが自分だ。文句あるか!」とか、逆に「今の自分は違う。どこかに本当の自分があるはずだ!」と考えてしまうと、迷いが深くなってしまうのではないでしょうか。

 結局、私たちは一人で生きて行くことはできません。多くの命のなかで自分というものが形作られ変化してゆき、その自分の状態がまた周りにも影響をあたえるといった、インタラクティブな世界の中に私たちは生きています。それが「諸行無常、諸法無我」という言葉で表されていると感じます。

   参考文献 水野弘元、 仏教要語の基礎知識、春秋社